アクチュエータユニット 位置決め機能内蔵 右折り返しタイプ 種類豊富な品揃え 直送品 EAS6RNX-E050-ARMKD-2 最安値に挑戦

アクチュエータユニット 位置決め機能内蔵 右折り返しタイプ EAS6RNX-E050-ARMKD-2(直送品)

35531円 アクチュエータユニット 位置決め機能内蔵 右折り返しタイプ EAS6RNX-E050-ARMKD-2(直送品) 機械部品/空圧機器/電気・電子部品 スライドガイド/ボールねじ/リニアシャフト 産業用ロボット 電動アクチュエータ アクチュエータユニット 位置決め機能内蔵 右折り返しタイプ 直送品 EAS6RNX-E050-ARMKD-2 【最安値に挑戦】 位置決め機能内蔵,EAS6RNX-E050-ARMKD-2(直送品),機械部品/空圧機器/電気・電子部品 , スライドガイド/ボールねじ/リニアシャフト , 産業用ロボット , 電動アクチュエータ,/differential1179328.html,アクチュエータユニット,miyazatoseitai.net,35531円,右折り返しタイプ 位置決め機能内蔵,EAS6RNX-E050-ARMKD-2(直送品),機械部品/空圧機器/電気・電子部品 , スライドガイド/ボールねじ/リニアシャフト , 産業用ロボット , 電動アクチュエータ,/differential1179328.html,アクチュエータユニット,miyazatoseitai.net,35531円,右折り返しタイプ アクチュエータユニット 位置決め機能内蔵 右折り返しタイプ 直送品 EAS6RNX-E050-ARMKD-2 【最安値に挑戦】 35531円 アクチュエータユニット 位置決め機能内蔵 右折り返しタイプ EAS6RNX-E050-ARMKD-2(直送品) 機械部品/空圧機器/電気・電子部品 スライドガイド/ボールねじ/リニアシャフト 産業用ロボット 電動アクチュエータ

35531円

アクチュエータユニット 位置決め機能内蔵 右折り返しタイプ EAS6RNX-E050-ARMKD-2(直送品)

商品の特徴 ●※画像は代表画像となります。予めご了承の上、ご注文ください。
商品仕様 メーカー オリエンタルモーター ブランド オリエンタルモーター(Oriental motor)
ストローク(mm) 500 ケーブル長さ(m) 2
その他1 ●スライダサイズ/幅62mm×高さ83mm その他2 ●センサレール/無し
その他3 ●テーブルタイプ/Xタイプ その他4 ●ドライバタイプ/位置決め機能内蔵タイプ
その他5 ●モーター取付方向/右折返し その他6 ●モーター部分解能(P/R)/100~10000
その他7 ●リード(mm)/6 その他8 ●押し当て力(N)/500
その他9 ●可搬質量 垂直(kg)/~30 その他10 ●可搬質量 水平(kg)/~60
その他11 ●繰り返し位置決め精度(mm)/±0.02 その他12 ●最高速度(mm/s)/300
その他13 ●最小移動量(出荷時)(mm)/0.006 その他14 ●推力(N)/~360
その他15 ●電源電圧(V)c/DC24/DC48 その他16 ●電磁ブレーキ/有り
その他17 ●搭載モーター/αSTEP ARシリーズ nbsp; nbsp;
備考 【返品について】お客様のご都合による返品はお受けできません。


アクチュエータユニット 位置決め機能内蔵 右折り返しタイプ EAS6RNX-E050-ARMKD-2(直送品)

2021年3月22日月曜日

パドレたちの北紀行Ⅱ(姉崎正治,1930より)

 

姉崎正治(1873.07.25-1949.07.21):文筆家・評論家・宗教学者(インド宗教・神道・仏教・キリスト教・新宗教).ペンネームは姉崎嘲風.別名姉嵜正治.(Wikipediaより)


 姉崎(1930)には「切支丹伝道の興廃」と「切支丹迫害史中の人物事蹟」の二冊の著作がある.そのうち,姉崎(1930b)「切支丹迫害史中の人物事蹟」にはデ・アンジェリスの蝦夷行についてわずかに記述がある.まとめると以下のようになる.内容はパジェスの記述を書き写したものである.しかし,この程度の記述では,私の知りたい行動記録にはならない.


1568年,シシリア島生まれ.

    18歳でゼスス会に入会.

    イルマン→パアテル;西インド→英国→ポルトガル→東インド→マカオ

1602(慶長七)年,日本へ

    長崎→伏見→駿府(伝道所)

1614(慶長十九)年,大追放,長崎に逃亡,

1615年,大阪へ.

1616年?,奥州へ.

    佐渡→越後→江戸…その間,蝦夷へも(このころ,松前で砂金採取が始まる)

1923(元和九)年,江戸で逮捕.十月十三日(12月4日)火あぶり刑.六十五歳.



 姉崎(1930a)「切支丹伝道の興廃」には,日本全体におけるキリシタン伝道の興廃が順序立てて示されているが,デ・アンジェリスやデ・カルワーリョに付いての記述,および蝦夷行についての記述はわずかであり,系統的でもない.しかし,彼らが,日本の鉱山開発にかかわったという記述があるので検討する.


鑛山は、一種奇妙な関係からキリシタン傳道と聯絡する。それは徳川氏の覇権増進が根本でで、家康は外國貿易の利盆と鑛山採掘の二つに財源の重要部を置き、此の二つながら外國人教師のカを借りて利益を増進せうとした事は時々述べた。而して伊豆の銀山足尾の銅山が慶長年間に段々開發して來た。南蠻鐵の輸入者たるイスパニヤ人は此の事に通じてゐると見込をつけたものか、バテレンに鑛山採鑛の相談をし、伊豆の銀山には一人イルマンが行つて檢分してゐる。佐渡の方は明確ではないが、大久保相模守の一件には、多少キリシタンとのの聯絡があるらしく、假令さなくとも、元和の初から教師が屢々佐渡に出かけ、後には可なり多くの殉教者があった。足尾も起源不明ではあるが、下野や上野に信徒が少なからずあり、後年足尾には多数の召捕があっただけは明白である。そこで始は採鑛傳授の意味、或はかく稱してキリシタンが聯絡をつけた鑛山は、迫害の進むと共に信徒の隠れ場になった。而して初期にも後期にも、教師はその方に傳道した。それは新な信徒を作る爲であると共に、隠れ忍んでゐる信者を慰問する爲であった。


 家康が外国貿易と鉱山開発の二点において「外國人教師」(この場合の「教師」は伝道者の意味)を利用したことを「時々述べた」としているが,まるで具体的なことは示してはいない.思うに,姉崎は鉱山技術に関しては知識が無いので示せなかったのであろうか.この頃のキリスト教伝道者と鉱山開発は関係ありそうだということを指摘したのは事実であるが,具体的なことは別な方面から探索することとして,姉崎からこれを追及するのはやめておこう.

 鉱山名がいくつかでているが,これに伝道者たちがどのようにかかわったのか,これもないので,これも別な方面からアプローチすることを心掛けておこう.また,「大久保相模守の一件」とは大久保長安の失脚のことと思わせるが,まるで具体性を欠くこの示し方は卑怯である.これもペンディング事項とする.

 ただし,そういう仮定が事実であったとすれば,技術指導と称して鉱山に潜入した(なぜ鉱山に潜入したのかは不明であるが)信者を見舞うことは可能であったろう.これも,裏付けを別な方面から探すことを心掛けておこう.


今、一例として仙北地方特に院内の鑛山を見るに、寛永元年(1624)その地方の迫害で殉教した勞働者の名が残り、鑛夫の常として生國を名の如くしてゐたので、その故郷が分かる。その事は後に記すが、その中には信仰の爲に逃れて來た者もあろうし、鉱山内で信者になった者もあらう。兎に角鑛山がキリシタンの隠れ場の一つになった事は明かで、それが後まで殘つてゐる。


 残念ながら,その資料は示されていない.


院内と山を隔てゝ奥州南部地方にも、此の聯絡が著しい。右仙北の迫害に先つこと半年、教師カルバリヨ(Diogo de Carvalho)が信徒六十人と共に捕へられたのは、仙臺領の山中、下嵐江(オロシエ)の鑛山村であつた。此と北上川を隔てた地方は、その昔藤原三代平泉の榮花に財源を供給した金鑛地方であるが、南部藩の領内で、佐比内の金山大籠の銅山小友の金山保呂羽の鐵山等は、皆後まで信者の居た處で、地方の傳説では、彼等が能く「湯加減」(多分鎔鑛の)を知ってゐたから、技術に従事したといふ。寛永十三年(1635)、幕府から、南部藩に對して、領内にキリシタンのあることを詰問したに對して、藩は申譯になる様な又ならない様な申譯をしてゐる。卽ち比佐内の山(ママ)に京都の丹波與十郎といふ技術者を使用したが、それが連れて来た一千人がキリシタンであったのだといふにある。一千人が多すぎるにしても、上方や西國の信徒が、避難者として東北に來て、鉱山に入った者のある證據になる。その他松前の砂金も東北傳道と關係あり、教師で各鑛山で巡囘した者もあり、寛永十九年(1642)に、幕府が特に令を出して、奥羽の山中にキリシタンが多いから、嚴に捜索せよと命じてゐるのも此の爲である。出羽の延澤に後年多数の召捕があつたのも同様で、何れも信徒避難者の隠れ家が、段々山中と地の下とに入ったしるしである。


 この部分も同じで,伝道師たちが伝えたという鉱山技術の存在が示されていないので,どのような関係があったのかがわからない.金銀鉱山,鉄山はそれぞれに技術が異なるので,すべてにわたって知識を持っていたのだろうかと疑問をいだく.実際にはもっていなくとも「持っている」という触れ込みで大名等をだましていれば,鉱山に入れたかも知れない.しかし,そういうことをしていれば,大名等に疑問をいだかせることになるだろうという気はする.

 姉崎の両著は,いずれにしても具体性を欠くので,探索行はつづくことになる.


蛇足1:佐比内の金山:岩手県紫波郡紫波町佐比内.金山とキリシタンの伝説があるが,地質は不詳.


蛇足2:下嵐江(おろせ);奥州市胆沢川上流の奥州湖湖底にあった地名.胆沢川と前川の合流点付近.地質図幅「焼石岳」では,旧下嵐江付近は「下嵐江層」であり鉱化は認められないが,上流約3kmの通称「千軒原」では,前川層の黒色板状頁岩と青灰色砂質(やや凝灰質)シルト岩の互層からなり,「渋民鉱床」と呼ばれる裂罅充填鉱床が発達する.裂罅充填鉱物は石英・黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱を主とするもので,脈幅約50cmである.周辺の黒色頁岩や砂質シルト岩は,著しく珪化作用を蒙り黄鉄鉱によって鉱染されている.およそ100余年前に,ここで鉛の製錬が行なわれたといい伝えられている.

 両地層は,中期中新世のいわゆる“グリーン・タフ”層準である.


渋民鉱山(焼石岳図幅)


蛇足3:大籠の銅山;不詳.岩手県一関市藤沢町大籠字右名沢28-7には「大籠キリシタン殉教公園」がある.この大籠はたたら製鉄の烔屋があったことで有名で,この烔屋経営の指導として呼んだ兄弟がキリシタンであり,のちに大籠が大勢のキリシタンの住み処ととなった.関係があるかないかは不明.


蛇足4:小友の金山;岩手県遠野市小友町.現在の「小友鉱山」は黒煙鉱床であるが,小友村大洞や小友村大葛にある鉱山は金鉱山であり,「古くから稼行されたものらしい(人首図幅)」とある.


大洞鉱山と大葛鉱山(人首図幅)


蛇足5:保呂羽の鐵山:不詳.


2021年3月20日土曜日

コガネイ スリムシリンダ DAB63X150-2 1個(直送品)


 長いんです.すいません.m(_ _)m

 でも,短く編集する気もおきませんので.


パジェスは1814年にパリで生まれパリで育った.1847年に北京フランス公使館の外交官として清国に赴任.当時の清国はアヘン戦争(1840年~1842年)でイギリスに敗れ,不平等な南京条約を締結させられたことに不満が高まっており,投石や殺害など外国人排斥運動が頻発していた.パジェスは1851年にフランスへ帰国.その後,清国軍と英仏連合軍が対峙する第二次アヘン戦争ともいわれるアロー戦争(1856年~1860年)が勃発している.日本では江戸時代の嘉永年間(1848年~1854年)にあたる.

(Wikipediaより.一部編集)


「日本切支丹宗門史」


元書名:Léon Pagés Histoire de la Religion Chrétienne au Japon depuis 1598 jusqu'a 1651, comprenant les faits relatifs aux deux cent cinq martyrs béatifiés le 7 juillet 1867. 2 vols. Paris. 1869.

和訳:「一八六七年七月七日、福者に舉げられたる殉教者二百五人に関する事蹟を採󠄁録せる、一五九八年より一六五一年に至る、日本切支丹宗門史」


 この本は,パジェスによれば,「日本帝国史」(全四巻)として刊行を予告された本の一部で,第三巻目に当たる.しかし,この第三巻目以外は発行されていない.


 日本語版は,吉田小五郎により,1931から三田史学会の「史学」に掲載されたもので,1938年に岩波書店より全三巻で出版されている.「史学」掲載分については,一部しか「慶応義塾大学学術情報リポジトリ」になく,したがってCiNiiにもその分しか表示されないので,全容は不明である.


 これを読んでいて,どこまで信じていいのだろうか,と疑問が湧いてきた.簡単にいってしまえば,これは歴史書などではなく,野蛮で残酷な日本人が高貴なキリシタンに加えた行為の記録である.いちばん「おかしい」と思うのは,状況再現があまりにも精緻であること.逮捕されたキリシタンと役人との間の葛藤など,いったいどこに記録があるのかと思うが,その場で見てきたかのような記述である.

 読んでいておかしくなるくらい「形容句」が多い.キリシタンに対しては清潔・高貴な修飾ばかりで,日本人(お役人)に対しては汚辱・侮蔑ばかりである.原文が悪いのか,訳者が下手なのか,一文の中で矛盾していたり,解釈不能な文章が多い.なお,索引には間違いがおおく,重要な「附録」は削除されている.

 それでも当時のキリシタンのことなど,記録が見当たらないので,これに頼るしかないのが哀しい.日本にも,関連書類が帝大書庫あたりに封印されているのかとも思うが,探すことすらかなわないのが哀しい.したがって,まずは,この「日本切支丹宗門史」から,蝦夷地にやってきたパドレの足跡を探ってみようと思う.


===1615-1616(慶長二十~元和元年)===


同じ頃、イエズス會のデ・アンゼリス師は、帝国の極北に赴いて、津軽の流人を慰問し、更に蝦夷の地方に入込んだ。」(上401)


 現在の日本では,極北(最北)といえば蝦夷地(北海道)であるが,当時の蝦夷地は支配の及ばないところであった.したがって,津軽の地が最北であった.そこには,秀吉の禁教令により,京都・大阪から流されてきたキリシタンが生活していた.

 彼らはもともと高貴な生まれであり農作業など不得手であったうえに,ただでさえ農地に適さない土地柄で収穫は少なく,加えて悪天候が続き「飢饉」の様相を示していた.


ヒエロニモ・デ・アンゼリス師(註五八)は、これ等の慰問品を齎して來たが、この難教者の移民に就いて、悲痛な記述を遺した。彼は、彼等の堪忍と徳とを見て、深く自ら恥ぢ、又大いに感動させられたと告白したのであつた。

出羽の仙北で、彼は伏見で洗禮を受けたペトロといふキリシタンが、自ら六百人の未信者を改宗させ、且つ彼等に洗禮を授けたことをきいた。

デ・アンゼリス師は、北方の諸国を巡歴し、その地方で夥しい未信者に洗禮を授けた。」(上414)


 彼らの悲鳴は長崎まで届き,ジェローニモ・デ・アンジェリスは多量の受給品を携え,津軽に訪れた.これによって流人たちは一息ついたが,この事によって,同じ飢饉に耐え忍んでいた現地の日本人から恨みを買ったのも間違いなかろう.キリシタンに対する悪意が増えた要因でもあろう.

 津軽に現れたデ・アンジェリスは,この時に北国(上記のように「蝦夷地(北海道)」は北国ではない)を巡検したらしい事がわかる.

 デ・アンジェリスの履歴は「註58」にある.


註五ハ デ・アンゼリス師は、一五六八年シシリイ島のEnnaに生れ、十八歳の時、イエズス會に入つた。未だ修士であつた頃、スピノラ師と共にヨーロッパを出發したが、イギリスの海賊に捕へられ、後ポルトガルに歸るに及んで、神父の資格を得、再び同じ神父と共に印度に派遺せられ、一五七五年マカオに到着、一六〇二年曰本に来た。彼は上方の伏見の修道院長となり、次いで内府様の在す駿河に至り、そこに修道院を建て、間もなく又江戸に出て、同じく修道院を作らうとした。然し、土地を買取した丁度その日、迫害が始まつたので、彼は再び駿河に歸り、一六一四年の追放の時までこゝに留り、その後は長崎に匿れてゐた。(上427)


 恐らく,これが日本で最初のデ・アンジェリスの履歴の紹介であろう.


===1620(元和六年)===


奥州では、千人餘の未信者がヒエロニモ・デ・アンゼリスディエゴ・デ・カルバリオ(日本名長崎五郎右衛門)(註三一)、ヨハネ・マテオ・アダミ(註三二)、マルチノ式見(註三三)(市左衛門)の神父達から洗禮を受けた。政宗を第一とするこれら諸國の大名達は、國法に從ふためには、迫害を我が義務とした。大使派遣(支倉一行)のために幕府から疑をかけられ、また公方様を倒すために、イスパニヤ王との同盟を求めたと噂された彼政宗は、身の潔白を證せんとし、領内キリシタンの根絶を決意した。彼は、命令三箇條を出した。第一、將軍の意志に反してキリシタンになった者を第一の罪人として、直ちに棄教を命ず。之に反する時は、富者は財産を沒収し、貧者は死刑に處す。第二、總てキリシタンを轉ぶ者には、榮譽と賞金を與ふ。第三、福音の傳道者全部に對し、少くとも信仰を棄てざる限り追放を命ず、と言ふのであった。」(中138)


 伊達政宗は,宣教師達を死刑にするとはいっていない.「追放を命ず」としているのみである.しかし,江戸では違った.


註三一 彼は、アルバロ・フェルナンデスとマルガリタ・ルイスとの間に、コインブラで生れた。彼は、一五九四年十七歳の時、生れた町でイエズス會に入つた。彼は、一六〇〇年十九人の他の人と共に乗船し、一六〇一年マカオに渡り、そこで哲學と神學の勉強を終つた。一六〇九年、彼は一年間語學を勉強した後、日本に渡つた、二年間を天草で送り、それから上方に遣られた。一六一四年に流され、一六一五年の初め、ナポリ人なるフランシスコ・プソミ神父と共に、交趾支那に送られた。カルバリオ師は、この國に住んでゐる日本人の商人の救靈を命ぜられてゐた。二人の教師は大に王の優遇を受け、交趾支那傳道の基礎を据ゑた。一時迫害が起ると、カルバリオ師は、一六一六年マカオに歸つた、同年、彼は再び日本に入り、初め大村で働いた。一六一七年、彼は第四の誓願を立て、奥州せデ・アンゼリス師と再會し、その布教を助けた。デ・カルバリオ神父は、三度津軽の流人を訪問した。(Franco. Coimbra. t. I. p. 122.)(中161)


 ディオゴ・デ・カルバリオの履歴の紹介は,日本ではこれが最初であろう.


ディエゴ・デ・カルバリオ神父は、デ・アンゼリス神父によつて、年々奥州より津輕に遣られ、聖なる流人を慰問した。

彼は最初、秋田と、出羽の仙北地方の城下町久保田(現今の秋田)に行つた。然し彼は、商人にのみ與へられて、普通の旅人には與へられなかつた手形の件で、津軽行を妨げられた。彼はキリシタン達が警戒してくれ、この國を通つて歸してくれることを期待して、蝦夷に行く決心をした。

一六一六年頃、蝦夷で甚だ豐産の金山が發見された。それで多くの坑夫が、その地に渡つたが、その中の若干は、キリシタンであつた。一六一九年には一萬五千人、一六二〇年には八萬人の坑夫がゐた。」(中140)


 デ・カルバリオ神父はデ・アンジェリス神父の命により,陸奥国から津軽へと送り込まれた.「秋田と、出羽の仙北地方の城下町久保田(現今の秋田)に行つた。」は意味不明.仙北群に城下町・久保田はないからである.誤訳であろう.

 秋田に在して津軽へ行けなかったので,蝦夷地へ行く,というのは論理的に繋がらない.

 1616年頃,蝦夷で金山が発見され,多くの坑夫が蝦夷に渡った.その中の若干名はキリシタンであった.1619年には1.5万人,1620年には8万人の坑夫がいたという.ここで,「坑夫」は通常「あな」を掘って,有用鉱物を採掘する「鉱夫」のことであるが,パジェスの原語は,それを意味していたのだろうか.それとも訳者の誤訳だろうか.蛇足すれば,松前金山は「坑道掘り」なのか,「砂金掘り」なのかという問題である.


神父は、その伴侶と共に手形には、坑夫として書いて貰つた。

總ての船舶は、日本人のゐる蝦夷の尖端松前の港を溜りにしてゐた。領主は、その地の生れではあるが日本人で、彼の収入は、商賣と同時に鑛山から出てゐた。

デ・アンゼリス師は、既に二年前に渡つたことがあった。領主は、彼を伴つて優遇したが、神父の出發後間もなく、土地の人のキリシタンになることを禁じた。彼は、旅人のことを別に心配せず、信仰の自由を與へた。


 デ・カルバリオ一行は坑夫という名目で,旅行手形をもらった.

 蝦夷へ渡る船は松前の港を停泊地としていた.松前の領主は現地生まれの日本人であり,藩の収入は通商と鉱山から得ていた.

 デ・アンジェリスは1618年に松前に渡ったことがあった.「伴って」の意味は不明.領主はデ・アンジェリスを優遇したが,彼の帰国後,住民にキリシタンになる事を禁じた.「彼は、旅人のことを別に心配せず、信仰の自由を與へた。」の意味は不明.旅行者が,どのような宗教を信じようと関知しないという事か.


カルバリオ師は、雪のサンタ・マリヤの祝日に、ミサを獻てた(註三七)。デ・アンゼリス師は、同地を視察するに渡つたので、聖祭用具を持つて行かなかつたが、キリシタン達は,鶴首して宣教師を待つてゐた(註三八)。彼等は大抵、或る者は同國で、また或る者は奥州で、アンゼリス師から洗禮を受けた人々であった。若干の他の者は、上方の地方から來た者であった。

神父は、告解を聴くために、松前に一週間を送り、それから一日路の所にある坑夫達の許に行つた。道は甚た嶮しく峨たる山を乗り越えたのであるが、其處からは帝国中の最大部が見渡された。彼は、鑛山の極く近くの隠れ家のある村で、ミサ聖祭を獻て、そこで聖母の被昇天を祝つた。鑛山に使はれてゐたキリシタンの中、二人は舊の傅道士で、宣教師の仕事を助けてくれた。更に、一週間は有效に過され、神父は大勢の病人の告解を聽いた、その中、若干は非常に遠い所から連れて來られた者であつた。やがて、神父は、再び松前に歸つた。」(中141)


註三七 八月五日。

註三八 com olhos longos (Diogo de Carvalho). (原文)


 「雪のサンタ・マリヤの祝日」は「雪の聖母(イタリア語:Madonna della Neve)」のこと.単なる伝説であるが,その日8月5日はローマカソリックの祝日である.

 デ・アンジェリスは視察の為に蝦夷に渡ったので,聖祭具は持参していなかったが,現地のキリシタンは首を長くして待っていた(デ・アンジェリスに命じられていったのであるから,たぶんデ・カルバリオは聖祭具を持参していたのであろう).彼らは,たいていデ・アンジェリスから洗礼を受けた人々であり,おおくは同地で,あるものは陸奥でその他の何人かは京都大阪から来たものであった.

 デ・カルバリオは松前で一週間過ごし,その後,鉱夫たちの在所に行った.道は大変に険しく,峨々たる山を乗り越えた.そこからは本州が見渡せた.彼は鉱山のそばの隠れ家のある村でミサを行い,「聖母の被昇天」(8月15日)を祝った.鉱山にいたキリシタンのうち二人は伝道師で,宣教師の助手を行った.さらに一週間が村で過ごされ,キリシタンたちの告解を聞いた.それらのうち幾人かは非常に遠いところから来たものであった.やがて,神父は松前に帰った(最低18日間,蝦夷地にいたことになる).


 松前を出るときに税を払わされた.その日のうちに津軽に到着.津軽で手形を登記してもらい税を支払った.港から一日半で津軽の城下町・高岡(現:弘前)に着いた.そこのある村には京都からの流人がおり,隣村には大坂からの流人がいた.ほかの二つの村には北国(越前・加賀・能登・越中)流人がおり,その中にはヨハネ休閑(浮田秀家)の息子三人がいた.デ・カルバリオはそこで秘跡を行った.


津輕の關所を通過することは、諺にある位困難であつたが、キリシタンなる役人の計ひで、取調べを受けずに、通過することが出來た。」(中143)


 津軽の関所に関する「ことわざ」は不明.前半と後半は矛盾するが,パジェスの文章にはしばしば現れる.

 デ・カルバリオはふたたび久保田を訪問し,領主・佐竹右京大夫(義宣)の妾オニシャマ(お西様か?)にあった.


神父は、最後の傳道として、仙北地方の院内の銀山を訪問した。

傳道は三箇月續いたが…(以下,神父がいかに神に守られているかという記述が続く)」(中144)


 「最後の伝道」の意味は不明.院内銀山はキーワードになるか?


===1621(元和七年)====


彼(政宗の城下町(仙臺)にゐたデ・アンゼリス)は、キリシタンの告解を聽き、蝦夷の地方(註三一)に關する詳しい情報を集めるため、同地に渡るやう命令を受けた。彼は、その使命を果し、歸途、江戸に落ちついた。彼は、召捕られるまで、そこに留まつてゐなければならないのであつた。」(中178)


註三一 彼は、蝦夷、日本、朝鮮、韃靼の一部と新イスパニヤ(メキシコ)の一部さへ出てゐる不完全な地圖を送󠄁つた。蝦夷は、島であるか半島であるかの問題が決定されずに殘つてゐた。彼は、住民の體格と風俗とを叙述した。彼は、着物が、無数の十字架で飾られてゐることを注意したが、未だ忘却の中に葬られたその原因を知ることは出来なかつた。この人々の宗教は、粗野で、漠然たる迷信的のものに過ぎなかつた。神父は、數と他若干の語の表を附記した。


 仙台にいたデ・アンジェリスは(この文の中での前後関係に怪しさがあるが,蝦夷に渡るように命令を受けたのは1616年の話であろう,その使命が終わり),1621年には江戸にいた.現代語解釈では,「(アンジェリスは)逮捕されるまで,江戸にいなければならなかった」という奇妙な文になる.意図的に逮捕されたのだろうか.それとも単に誤訳で,「逮捕されるまで江戸にいた」というだけの意味なのだろうか.

 なお,アイヌの宗教(世界観)について,“粗野で迷信的”と判断するのは尊大であると思われる.


註一三四 (前略) ヒエロニモ・デ・アンゼリスとヨハネ・マテオ・アダミの兩師は、越後と北方に位する佐渡の島に二囘行つた。デ・アンゼリス師は、蝦夷の松前に渡り、歸りに、津軽の流人を訪問した。ディオゴ・デ・カルバリオ師も亦、同地方へ傳道に出かけた。(中275)


 松前に関しては,すでに記述されている事と同じ.


===1623(元和九年)===


 1623年8月23日(元和九年七月二十七日):徳川家光が将軍となる.キリシタンは死刑と決まる.

 江戸にいたデ・アンジェリスは,彼のパトロンが拷問を受けたとのことで,自首することにした.デ・アンジェリスは変装を解き,修道服を着て奉行所に出た.


デ・アンゼリス師は、奉行から檢べられると、『私は、イエズス會の司祭であり修道者である、イタリヤの國はシシリイ島で生れた、色々の話から、日本人の芽出度き性質と、而も日本人に救濟の希望あることを知り、一切のものを捨てて、この日本人の中に參つて眞理を傳へようと思つたのである。私は、御國の風俗を採用し、日本人のやうにしてゐる。二十年間の傳道の總ゆる苦勞、總ゆる艱難、私が身は、この人民の救濟のために獻げたものだから、よく使はれたと思つてをります。』衆人みな、この精神の獨立と、異國の國民に對する母親のやうな心情に感嘆した。然し、政治的奴隷たる奉行は、この聖なる修道者を監禁した。」(p.289-290)


 (以下処刑までの様子詳細あり)

 12月4日(和暦か否かは不明),原主水らと共に死刑.


その間に、二囘も蝦夷の國を訪問し、その地方で初めてミサ聖祭を獻てたディオゴ・デ・カルバリオ神父は、奥州と出羽に滞在し、秋田や南部の地方に天主堂を建てた。この地方に迫害が起るや、彼は遁走を拒絶し、弟子たちと共に踏留まる決心であつた。

この年の末頃、彼は、デ・アンゼリス師から、三度目に蝦夷の韃靼人を訪問せよとの命を受け、この旅行を果した。」(中298)


 デ・カルバリオは,奥州(現:岩手県)と出羽(現:山形県と秋田県)におり,天主堂を建設した.取り締まり強化が進んでも,彼は逃走を拒否した.

 1623年の末頃,デ・カルバリオはデ・カルバリオから三度目の訪夷を命じられた(当時にしても蝦夷に韃靼人はいなかったろう).


===1624(元和十~寛永元年)===


この時、デ・カルバリオ師は、宿主の宅でそのまゝ死ぬことを心配して、彼と別れたが、これは、政宗の領内に留まるためであつた。何となれば、彼は、時至れば、羊の群と共に、死ぬ覺悟はしてゐたが、鑛山地方の下嵐江の谷間に隠れ家としてマチヤス・イヒョーヱの家を選び、この家では、主屋に續いて狭い荒屋があつた。彼は、傳道士も従者も、連れてゐなかつた。時に、ヨハネ後藤は、奥州の北方にある、南部の州に追放された。キリシタンの調査は、厳しく行はれ、忠賓なキリシタン達は、仙臺に引かれて,そこで領主の御意を待つことになつた。」(中311)


 この時,下嵐江村には60人のキリシタンがいた.彼らはデ・カルバリオの荒屋のとなりに隠れ家を建てたが,役人たちは彼らを見いだし,住み処を荒らした.キリシタンは雪の中,着ている物をはぎ取られた.


デ・カルバリオ師は、この哀れな様を見て、役人の許に名乗り出で、『私は、この哀れな者達の父ぢや。』といつた。さうして、彼は縛られるやうにと兩手を差出した。神父が召捕られた結果、大勢のキリシタンが返された。師は、例によつて、卒達に飲料を差出させた、そこで修道者として出て行くために、日本の着物を脱ぎ、大小刀を差出したいと言つた。然し、彼は、家老たちの前に差出す方が適當だと悟つた。彼は顱頂を剃りたいと思ひ、數日後頭を剃つて貰つたのであるが、顱頂だけを剃り明けて貰ふことが出来ず、土着の僧侶のやうに丸坊主にされた。」(中311-312)


 その年も暮に近付いていた.そこで,デ・カルバリオらの処刑は新年の儀式が済んだ後となり,2月18日(陽暦)と決まった.

 その日,天候は雪の混じる寒風であった.


それは夜の五時のことで、人通りが繁かつた。勇敢な殉教者の指揮者は、その前に、最愛の弟子たちとイエズス・キリストの息子たちを遣はす慰めをもつてゐた。なほ、彼は皆の後に生残り、宛然石のやうに最後まで動かずにゐた、彼の死に立ちあふことを請うた若干のキリシタンたちは、彼が大體眞夜中にやつと息を引取つたと確言した。

朝、遺骸は引取られた、それは、これを寸断して川に棄てるためであつた。然し、キリシタン達は、デ・カルバリオ師の首(註八)と、他に四つの首を手に入れることび出來た。

(中略)

デ・カルバリオ師は、四十六歳、イエズス會に在ること三十年であるが、彼は、日本及び交趾支那の傳遣に十五年を過して來たのであつた。


 本来,二人の神父の行動は年表としてまとめられるべきであるが,時間軸に押さえられない点が多く,あきらめた.これでもだいたい何があったかはわかるだろう.今後,各種文献を精査することによってまとまってくるだろう,と思う.

 なお,パジェスの記述が下劣な日本人とその下劣さから救い出そうとした高貴なキリスト教(カソリック)を強調することによって,客観的な事実は薄められてしまっているので,記述は何割引もして理解しなければならないだろうと思う.たとえば,「クリストフ・フェーレイラ神父(S.J.)」に関する記述を読めば,これは「公平ではない記述だ」と理解できるかも知れない.

 以下,クリストフ・フェーレイラ神父(S.J.)についての記述を読んでみよう.



クリストフ・フェーレイラ神父(S.J.)


===1633(寛永十年)===


十月十八日、長崎でイエズス會の管區長ポルトガル人クリストファル・フェレイラ神父と、イエズス會の日本人神父ジュリアノ・デ・中浦が穴の中に入れられた。又シシリヤ人で、イエズス會のヨハネ・マテオ・アダミ神父、イエズス會のポルトガル人アントニオ・デ・ソーザ神父、聖ドミニコ會の修道士、イスパニヤ人フライ・ルカス・デル・エスピリット・サント神父、イエズス會の日本人ぺトロ修士とマテオ修士、聖ドミニコ會の日本人フランシスコ修士が穴の中に吊された。

「(中略) 拷問五時間の後、二十三年の勇敢の働き、改宗の無数の果實、聖人のやうに忍耐された無限の迫害と難儀によつて、確固してゐさうに見えたフェレイラ神父が、天主の正しく計り知れない審判によつて、哀れに沈没した

偶像崇拝の徒は、この破滅を喝采すれば、イエズス會では、實に苦い涙を流した。然し、その會員の祈りと、日本の最初の使徒聖フランシスコ・ザベリオの代願は、他の宣教師の犠牲の代價で、精神的に死んだ不幸な背教者を復活させた、クリストファル・フェレイラは二十年後に、その立返りと殉教とによつて、イエズス・キリストの教會と、彼が屬するイエズス會を慰めた。

フェレイラ神父は、當時五十四歳で、イエズス會にあること三十七年であつた。」(下254)


===1637(寛永十四年)====


九月二十一日、午後二時頃、ゴンサレス神父と二人の俗人とを乗せた他の船が着いた。神父は、元氣よく陸に飛上り、十字架の印を切つた。彼は、堂々たる體格で人目を引いた。役人の前に引出され、彼は法廷に、クリストファル・フェレイラ神父と、同じく轉んだ日本人の教師を見出した。」(下300)


 四年後,フェレイラはクリスチャン審判の役人として,法廷にいた.

 古賀(1940)は皓臺寺過去帳を調べ,沢野忠庵は慶安三年十月十一日(西暦1650年11月4日)永眠を見いだした.生年と比較すると70歳余りとなる.古賀は「沢野忠庵は、決して殉教した者では無く、天寿を全うして病没した」と結論している.


2021年2月13日土曜日

「えぞキリシタン」の基礎知識


 目的は松前金山(もしくは大千軒岳金山)の詳細なのだけれど,直接当たれる資料はなし.しかたが無いので,キリシタン関連の文献から,その姿を探らんとす.

 しかし,これ自体が特殊な世界だから,またまた遠回りから始めることになる.まずはその固有名詞から….


+++


 さて「キリシタン」から.

 キリシタンは,ポルトガル語でCristãoもしくはChristanを日本語風に表すとこう聞き取れるらしい.どちらも「キリスト教徒」のこと.漢字では当初「吉利支丹」と書かれたが,日本で禁教が始まると「切死丹」・「鬼理死丹」なども使われたらしい(須藤,1969).また,五代将軍は徳川綱吉の名に「吉」が含まれているため,綱吉以後は「吉」の使用をおもんばかって「切支丹」が一般的になったと,デジタル大辞泉や日本大百科全書に出ている.

 面倒だから,カタカナで「キリシタン」に統一しよう(固有名詞で使われた漢字はもちろん別扱い).


+++


 蝦夷地に住んだ切支丹についての名称.なんと呼ぶべきなのか.

 最初に,蝦夷地のキリシタンについて言及したのは,知る限り姉崎(1930)である.しかし,姉崎は日本の「切支丹迫害史」として扱っていて,蝦夷地に住むという範囲での区別はしていない.

 知る限り,この名前が出てきたのはフーベル(1939)の「蝦夷切支丹」である.むかしのひとは難しい漢字も平気で使うので,こうなったらしい.私もときどき使うけど,PCだから出てくるので,手書きではほとんど無理だろう.

 つぎにえぞキリシタンのことを記述したのは永田(1960)である.永田は「蝦夷の切支丹」を表題に使い,本文中でも蝦夷地のキリシタンという特定はしていない.もちろん,これは「切支丹風土記」というシリーズの中での北海道編であるから,全体とあわせたものだろう.

 つぎにえぞキリシタンのことを記述しているのは,チースリク(1962)で「切支丹」ある.チースリクもまた,日本にいたキリシタン全体を「切支丹」と呼んでおり,「北海道にいた」という意味では特定していない.

 須藤隆仙(1969)は,北海道にいたクリスチャンというくくりで,かれらを「えぞ切支丹」と呼んでいる.ただし,須藤は永田やチースリクと交流があり,二人に多くを学んだと「あとがき」に書いている.彼らの研究会ないし議論では普通に出ていたものかも知れない.

 永田富智は古くからえぞキリシタンについて調べていたらしい.しかし,独自の書籍を発表したのは1972年になってから.その表題は「えぞキリシタン」であった(永田,1972).

 福島(1982)は「北海道キリスト教史」で「蝦夷キリシタン」と表記.


 まあ,つまらんことですが,信教の自由化以前の弾圧されたクリスチャンのうち,蝦夷地に在住(仮住も含む)したものを「えぞキリシタン」とし,さまざまなバリエーションがあるということでどうでしょう.


+++


 次に敬称もしくは肩書きについて.


パードレ [Padre]:ポルトガル語,スペイン語,イタリア語で「神父,司祭」のこと.

 元はギリシャ語のパテール [πατηρ]で「父」を意味する.これがラテン語化してパテル [pater] になり,ポ,ス,イでパードレ [Padre]となり,本来「父」の意味である.ポルトガル語として日本に入ってきた時には,キリスト教と結びついているので「パードレ=神父,司祭」の意味になる.一方,キリシタン内では「パデレ」や「バテレン」と変化し,「伴天連」と書くようになる.


イルマン [irmão]:ポルトガル語で「兄弟」のこと.

 こちらも日本に入ってきた時にはキリスト教と結びついているので,神父に従って布教した“助手”を意味する言葉としてとらえられている.イルマンの当て字は「伊留満」「以留満」「入満」であるが,「修士」「助修士」と書かれることも多い.

 また,もともと兄弟の意味であるから,信者の組織(講・組:コンフラリア[confraria])の構成員も「イルマン」と呼ばれることがあるらしい.

 神父になる前の“見習い”がイルマンで,ただの“平”信者もイルマン.神の下に平等であるはずのキリスト教徒にも区分(ランク)があり,見習いは平信者と同じに見なされる.キリスト教徒でないものには「違和感」が感じられるが,膨張する組織維持にはありがちなことであろう.

 この他にも「司教」・「大司教」などもいるはずであるが,日本のような辺境,さらに蝦夷のようなもっと辺境に現れるわけもないので,放置.


+++


 さて,辺境の蝦夷地までやってきたパードレについて.そのひとの名前の日本語表記にバラつきがあるので整理.


 蝦夷地に始めてやってきたとされる神父:Girolamo de Angelis

 秋岡(1929)は「アンゼリーJerome de Angelis)」としている.

 姉崎(1930)は「アンゼリスGirolamo de Angelis)」という章題で解説している.名前は「ジロラモ」であり,「ジロラモ」,「ゼロニモ」,「エロニモ」も同じとしている.本文中では,名前の方が紛らわしいので,ファミリーネームの「アンゼリス」を使うとしている.

 フーベル(1939)は「ジロラモ・デ・アンジェリス師」と表記.この場合の「師」にはキリスト教世界の特別な意味はなく,単に「先生」くらいの扱い.

 児玉ほか(1954)は同じく「ジロラモ・デ・アンジェリス」と表記.原名の [Girolamo de Angelis] を付記している.本文では「アンジェリス」と呼び捨て.しかし,別なパードレと併記する時には「両神父」と尊称(職名)を使用.

 今村(1960)は「ジロラモ・デ・アンゼリス」と表記.原名の [Girolamo de Angelis] を付記している.同じ本ではあるが,別の章を担当した松野(1960)は「デ・アンジェリス」と出身を表す「デ[de]」を付記.今村が本文内で呼んでいる「アンゼリス」とは異なる.編集者は統一を計るべきではなかったかと思うが,各著者に任せたものであろう.永田(1960)は「ジロラモ・デ・アンジェリス神父」と表記.本文内では「アンジェリス」とし,「デ[de]」は使用していない.蛇足すると永田(1964)では「ジロラモ・D・アンジエリス神父」というのも使っている.

 チースリク(1962)は「ジェロニモ・デ・アンジェリス神父」と表記.原名として [Jeronymo de Angelis S. J.]を付記している.この場合の[S. J.][Societas Jesu](ラテン語)の略で,「イエズス会員」のこと.さて,「ジロラモ」と「ジェロニモ」は別人格か? [Jeronymo de Angelis S. J.]でググって見ると,この表記は確かに存在し,[Girolamo de Angelis]と同じ行動をしているので,同一人物であろう.表記が違うのは,イタリア語では[Girolamo]がポルトガル語では[Jerónimo]となるから,らしい.元はヒエロニュムス[Hieronuyms](ラテン語)という聖職者の名から来ているようだ.

 須藤(1969)は「ジエロニモ・デ・アンジェルス神父」と「ジェロニモ・デ・アンジェルス神父」を使用している.これは,印刷の品質が悪いからか,校正時に見逃したものであろう.

 永田(1972)は,「ジェロニモ・デ・アンジェリス師」を使用.本文内では「デ・アンジェリス」を使用している.

 福島(1982)は,「ジロラモ・デ・アンジェリス」を使用.[Girolamo de Angelis (1568-1623)]を付記している.本文中では「アンジェリス」を使用.「デ[de]」は使用していない.


 カタカナ表記及び原名は,以下のようになる.

 アンゼリー(Jerome de Angelis)(秋岡,1929)

(ジロラモ・デ・)アンゼリス(Girolamo de Angelis)(姉崎,1930)

ジロラモ・デ・アンジェリス(フーベル,1939

ジロラモ・デ・アンジェリス(Girolamo de Angelis)(児玉ほか,1954

ジロラモ・デ・アンゼリス(Girolamo de Angelis)(今村,1960

デ・アンジェリス(松野,1960

ジロラモ・デ・アンジェリス(永田,1960

ジェロニモ・デ・アンジェリス(Jeronymo de Angelis S. J.)(チースリク,1962

ジロラモ・D・アンジエリス(永田,1964

ジエロニモ・デ・アンジェルス/ジェロニモ・デ・アンジェルス(須藤,1969

ジェロニモ・デ・アンジェリス/デ・アンジェリス(永田,1972

ジロラモ・デ・アンジェリス(Girolamo de Angelis 1568-1623)(福島,1982


 ファーストネームは「ジロラモ」もしくは「ジェロニモ」という表記が多い.このうちジロラモは原名が Girolamo である.Girolamoはイタリア語で,フランス語ではJérôme となる.どちらもギリシャ語のイエローニュモス(Ιερωνυμος:「神聖な名」という意味)がラテン語化してヒエロニュムス(Hieronymus:同上)に変わったものから派生したとのこと.蛇足するとポーランド語ではHieronimになる.日本で有名な「ちょいワル小父さんジローラモ」さんは,じつは由緒正しい名前だったのね.

 もう一つのジェロニモは,原名がJeronymoであり,フランス語に近いものかと思わせるが不詳.これは「アンジェリスの第一蝦夷報告」(1618. 10. 01)の署名に使われた名前で,「第二蝦夷報告」でも同じ署名が使われているらしい.日本人になじみ深いジェロニモはアメリカインディアンの勇者であるが,じつはこれはメキシコ人の付けたあだ名だという.綴りはGeronimo.もちろんこれもラテン語ヒエロニュムスから派生したスペイン語なのであろう.

 Girolamoにしろ,Jeromeにしろ,Hieronimにしろ,ファミリーネームのアンジェリス(Angelis:天使/使徒)と同様に本名とは思えないおめでたい名前である.これは洗礼名というものなのか.筆者はキリスト教には詳しくないのでわからない.


 これは本名ではなく,聖名ともいうべき名なので,言語の違う各国において異なった呼び名が使用されているものなのだろう.たとえば,日本では「使徒の聖名」(安倍晴明みたい(^^;)さんでもいいのかも知れない.しかし,本人が署名に使っていた名前を使うのが一番いいだろうと思う.

 Jeronymo de Angelis S. J.ジェローニモ・デ・アンジェリス)もしくはデ・アンジェリスで統一することとする.なお,上記はすべてシノニム(同物異名)扱い(なおこれはわたし個人のルールであって,他人を規制するつもりはない).



+++

 次に蝦夷地に現れたのは Diogo Carvalho である.この人物はデ・アンジェリスに比して研究者の扱いが粗略である.

 秋岡(1929)は「カルヴァグリオJakob Carvaglio)」と呼んでいる.ファーストネームのヤコブ(Jakob)という例は,ほかには見あたらない.記述された行動履歴からは,同一人物である.

 姉崎(1930)には,該当する人物が現れないようである.

 フーベル(1939)は「ディエゴ・カルワルホ師」と呼んでいる.原名は本文には示されていないが引用文献にはDiogo Carvalho S.J.と記した文献が示されている.文献自体はローマで出版されたもの.したがって,イタリア語かラテン語かと思われるので,これがディオゴ・カルワルホかと思われる.また,別の引用文献にはDiogo de Cawahoとある.これは誤植なのか,別の語表現なのかは不明である.CawahoCarvalhoの誤植である可能性が高いが,出身を表すde が使われる例もあるようだ.

 児玉ほか(1954)はフルネームの日本語表記はなく「カルヴァリオ [Diogo Carvalho]」と記している.Carvalhoがカルヴァリオと表記されるべきなのかどうかは不明.ポルトガル語ではこのように発音されるのだろうか.

 今村(1960)は「ディエゴ・カルバリオDiego Carvaglio)」と記している.DiegoDiogoのスペイン語表記らしいが,なにか混乱があるのだろうか.同じ本で,松野(1960)は「ガルバリオ」と「ガルバリヨ」の二つの表記を混用している.また,同本で永田(1960)は「リーダッショ・カルワルホ」と記しているが,記述からはデイエゴ・カルワルホと同一人物である.「リーダッショ」の出自および意味は不明.知内町史には同一人物を「リーダッショ・カルワーリュ」と書かれているらしいのだが,町史は入手不能なので確認できない.“リーダッショ・カルワーリュ”は,Google検索には引っ掛かってこないので,なにか特殊な出自と思われる.

 チースリク(1962)は,「ディオゴ・カルワーリュ [Diogo Carvalho S. J.]」としている.Carvalhoがカルワーリュと書かれるべきものなのかどうかは不明.スペイン語系では「カルヴァーリョ」,「カルバリョ」と表記するものが見受けられる.しかし,Diogo Carvalhoはスペイン系ではなくポルトガル系の人物である.ポルトガルの人物ではCarvalhoと綴ってカルヴァーリョと日本語表記されるものがある.

 須藤(1969)は,「デイオゴ・カルバリオ」とし原名は示していない.

 永田(1972)は,こんどは「ディエゴ・カルワルホ」とし,原名は示していない.

 福島(1982)は,「ディエゴ・カルワルホDiego Carvaglio 1578-1624)」としている.



 カタカナ表記および原名は以下のようになる.

カルヴァグリオ(Jakob Carvaglio)(秋岡,1929

ディエゴ・カルワルホ師(フーベル,1939

カルヴァリオ神父(Diogo Carvalho)(児玉ほか,1954

ディエゴ・カルバリオ(パードレ/師父)(Diego Carvaglio)(今村,1960

ガルバリオ(ガルバリヨ)(松野,1960

リーダッショ・カルワルホ神父(永田,1960

ディオゴ・カルワーリュ神父(Diogo Carvalho S. J.)(チースリク,1962

デイオゴ・カルバリオ神父(須藤,1969

ディエゴ・カルワルホ/カルワルホ(永田,1972

ディエゴ・カルワルホ(Diego Carvaglio 1578-1624)(福島,1982



 Wikipediaの英語版には Diogo de Carvalho の項目があり,記述内容からは明らかに蝦夷地に現れたパドレである.同ポルトガル版でもDiogo de Carvalhoの項目がある.同日本語版にはこの項目は存在しない.

 Carvaglio(カルバリオ)はイタリア語と思われるが,それならば「カルヴァーリィオ」もしくは「カルヴァーリョ」と表記されるべきではないかと思う.また,Carvalho(カルヴァリョ)はポルトガル語として存在し,その意味は「樫=oak」であるという.どちらも出身を表す「デ de」が使われているのが,日本に於ける旧研究とは異なるところである.


 Wikipediaの仏語版ではJacques Carvalhoとしてあり,ポーランド語版ではJakub Carvalhoとなっている.Jacquesは仏語.ポーランド語ではJakubとなる.元はラテン語のIacōbus.これはギリシャ語のἸάκωβος (Iákōbos)から来たもの.


 Diogoはポルトガル語で,別な表現としてDiago, Diegoがあるという.

 Diegoはスペイン語.Santiagoの略名.Santiagoはラテン語のSanctus Iacobus (“Saint James”)から来たもの.Iacobusは古代ギリシャ語の Ἰάκωβος (Iákōbos)から派生.


 つまるところ,Diego も,Diogoも,Jacquesも,Jakubも,みなヤコブ(聖書中の人物)から各国の言葉に変換されたもの.

 つまり,書籍や論文あるいは手紙など,どこの国の言葉で書かれたものを引用したかで,一人の人物が別名で呼ばれることになる.さらに日本語のカタカナ表記では著者の主観が入って,まったく分けのわからないバリエーションができる.原名を併記するか,どこかで日本語カタカナ表記を統一してもらわんと困るね.まとめきらん.

 また,Diegoはおめでたい名の一種であり芸名(洗礼名?)の一種で,つまり本名ではないのだろうと思う.一方,「Carvalho=樫の木」がキリスト教世界で「特別なもの」と見做されているのかどうかはわからないので,なんともいい切れない.


 さてようやっと,二人の神父の「旅」について調べ始めることができる…



2021年1月26日火曜日

ブンガワンソロの謎(湊先生の場合:そのは)

アースモス 角皿 網代 青白正角皿 (3個入) utw-21111656(直送品)
コガネイ スリット式ロッドレスORGAシリーズ ORGA25X2000-F2-K2-CS4MA2 1個(直送品)
南榮工業 サイクルハウス替え後幕 RSN4SB 1枚(直送品)
ファスニング J クロメート 鉄(+)皿タッピンねじ(1種 A形) 8 X 20 200000010080020002 1箱(200個)(直送品)
※低価格※【1cm単位】アルミブラインド<遮熱>幅228cmx高さ95cm rzn5835_w228h95r 1セット トーソー(直送品)
外からの視線を遮りながら太陽の光をやさしく取り込むので を検索するとピッタリサイズが見つかります ホワイト 安心の防炎加工が施されています 必要時間:10分 幅970×高さ920mm 右操作 窓をスタイリッシュに見せることができます tf6441-97x92rr 片開き トーソー 調光や外からの視線をコントロールできます 日本製 2梱包 1台 製造国 幅 梱包数 仕様:左右の操作変換が可能です 左寄せ片開きに変更可能 材質 大型の窓や幅広の窓にも対応できます オフィスや店舗 返品について 登録されている防炎対策物品です 幅60cm~300cm クリニックなどに最適です メーカー nbsp; 組立目安 違いで 商品仕様 ホワイト色 また一般住宅のリビングや子供部屋はもちろん 高さ 縦型ブラインドは見た目がすっきりとしているので 970 1cm単位 寸法 920 縦型ブラインド ブランド 防炎加工:消防庁に認定 7254円 移動せずにその場で角度調整 ボトムコード有り TOSO tf6441-97_2の全商品を見る 羽根幅:羽根幅は標準的な100mm 開閉操作がコード お客様組立品:必要人数:1人 プロ縦型ブラインド サイズは幅1cm毎×高さ1cm毎で用意しているのでASKUL検索窓より プロ仕様 mm 操作方法はコード 備考 高さ60cm~250cmの範囲内で1cmごとに商品のご用意がありますので 直送品 120cm×180cm 角度調整:コード 巻き込み式のため高さの調整が可能です 必要工具:なし ポリエステル100% カラー EAS6RNX-E050-ARMKD-2 バランスウェイト 商品の特徴 お客様のご都合による返品はお受けできません バトン式です 幅970×高さ920mm 全91商品 風による羽根のバタつきを軽減します 位置決め機能内蔵 ホワイト 付属品:安全対策用のクリップ付属 アクチュエータユニット 幅970 その他商品仕様 操作位置は右操作 幅サイズ×高さサイズ バトンで簡単にできます ※取付けを左右逆にすることで左操作 取付けを左右逆にすることで左操作 あります 通気調整:羽根を動かすことでプライバシーを保護しながら風を通すことができます 高さ トーソー 羽根の角度を調整して 開閉 右寄せの片開きです 例:プロ縦型ブラインド 高さ60cm~250cmの範囲内で商品のご用意があります 右寄せ 右折り返しタイプ 朝は太陽の光で起きたい方の寝室にもおすすめです
CKD 部品(空圧バルブ4Gシリーズ用(サブプレート)) M4GB3-C10-T52-KF-6 1個(直送品)
商品仕様 10Z-3FB40N750-JJ2 位置決め機能内蔵 商品詳細情報 交換はお受けできません タイヨー 12316円 EAS6RNX-E050-ARMKD-2 メーカー 商品の特徴 お客様のご都合による返品はお受けできません アクチュエータユニット TAIYO TAIYO 1個 メーカーサイトはこちら エアーシリンダ 詳細仕様についてはメーカーサイトをご確認ください キャンセル 右折り返しタイプ ご注文後の変更 ブランド 備考 商品掲載画像は代表画像になります 直送品 返品について 返品
アクチュエータユニット パルス列入力タイプ ストレートタイプ EZS3CL-D025-ARAK(直送品)
商品詳細情報 直送品 TAIYO ユアツシリンダ 位置決め機能内蔵 商品仕様 26132円 メーカーサイトはこちら EAS6RNX-E050-ARMKD-2 ブランド TAIYO アクチュエータユニット メーカー 備考 70H-8R1CA63BB600-ABBM2 タイヨー ご注文後の変更 お客様のご都合による返品はお受けできません 商品掲載画像は代表画像になります 詳細仕様についてはメーカーサイトをご確認ください 商品の特徴 キャンセル 返品について 交換はお受けできません 右折り返しタイプ 返品
アクチュエータユニット 位置決め機能内蔵 ストレートタイプ EAS6X-D020-ARMAD-2(直送品)
耐水機能付き 取付け方法 家具 効果2 トーソー_1の全商品を見る 強力なバネの力で固定する 遮熱効果で更に経済的に アスクルオフィスづくりサービスはこちら キャップ:樹脂成形品 あります ワンポール操作 その赤外線を羽根 6772円 サビやカビが気になる湿気の多い場所にもおすすめです 幅119cm×高185cm サビやカビを防いでくれます 原産国 nbsp; ブラケット 位置決め機能内蔵 ctb835T-119 遮熱加工済みで羽根幅は標準の25mm また羽同士がくっつかない2重ラダーコードを採用 仕様 耐水ホワイト ブラインド本体 のブラインドなので セット内容は 高さ 1cm単位 カラー 耐水 寸法 日本 またコードに引っかかる心配もないので安心です 全100商品 右折り返しタイプ 2個 です 違いで タイルやレンガなどのネジが使えない場所にも利用が可能です TOSO 機能をシンプルにすることで格安価格を実現しました 取付け部分の奥行き2.9cm ブランド トーソー 遮熱 機能 メーカー アスクルの総合家具TOPページはこちら 直送品 1セット スラット 表面にコーティングした遮熱塗料で反射し 熱エネルギーの発生と室内への侵入を低減します アクチュエータユニット つっぱりタイプの簡単取付け 商品詳細情報 レール:アルミ 幅119cm 備考 ヘッドボックス 商品仕様 返品について 材質 お客様のご都合による返品はお受けできません 納期のご相談まで ネジはステンレス製 ヘッドボックスにアルミを使い 見た目は1本でスッキリ インテリアが探しやすい 185cm つっぱりタイプ EAS6RNX-E050-ARMKD-2 また耐水機能付きなので 操作棒68cm なのでタイル面でもご利用可能です レイアウト 2枚 プロ仕様 両面テープ 商品の特徴 内容量 r48 効果1 ボトムカバー つっぱりブラインド ブラインドは長く使うからこそしっかりとこだわったプロ仕様品質をそのままに トーソー コード類には防水加工を施しているので コードが操作棒の中に入っているので 各種工事 高さ 取付けはネジのいらない 操作方法 プレートキャップ ctb835T-119x185r68 太陽光の中で暑さを感じさせる日射の約50%は赤外線です
ボンダス(BONDHUS) ボンダス スタビードライバー +2×30 2286 1本 857-1456(直送品)
違いで あります 質量 検品作業 グリーン 酸 実験室などでご使用頂けます 物流現場での梱包 カラー ブランド 高さ調整機能を備えた移動式の軽量作業台 600 工場や倉庫での組立作業などにもおすすめ 返品について 日本製 キャスター付き 商品の特徴 直送品 メーカー 軽作業に最適な全体均等耐荷重160kg 商品仕様 幅1200×奥行600×高750~1000mm 製造国 キャスター 最大積載質量 天板は 幅 均等耐荷重160kg 梱包数 奥行 1200×600 天板:グリーン インテリアが探しやすい アスクルオフィスづくりサービスはこちら 耐荷重200kg YamaTec 山金工業 材質 カラー 類似スペック品を探す 商品仕様の一部から別の商品を検索できます 全20商品 高さ 本体:スチール 幅×奥行 ワークテーブル 自重含む mm 山金工業 レイアウト 自重を含む 組立目安 H750~1000mmの範囲で使いやすい高さにセットできます 1台 お客様組立品:必要人数:2人 幅1200×奥行600×高さ750~1000mm 納期のご相談まで 必要工具:プラスドライバー 14421円 寸法 移動式 位置決め機能内蔵 必要時間:40分 天板:スチール 高さ750~1000mmの全商品を見る お客様のご都合による返品はお受けできません 家具 750~1000 強度が高く アスクルの総合家具TOPページはこちら 1200 付属品:100φ自在ストッパー付ゴムキャスター4個 口紅 本体グリーン 商品詳細情報 アルカリなどの耐薬品性 アクチュエータユニット 車上渡し その他商品仕様 マジックインキなどの耐汚染性に優れたスチール天板 25mmピッチ 各種工事 キャスター付きのため作業場所の移動が簡単に行えます 4梱包 EAS6RNX-E050-ARMKD-2 メーカーサイトはこちら 33.9kg ヤマテック mm 右折り返しタイプ 備考 物を載せたままの移動は落下の恐れがあり危険です スチール天板
WMハイス鋼ドリル 8.90x125x81mm ブルーフィニッシュ 【WMHSD089012581】 WMHSD089012581(直送品)
2の取付けスペースに加えて スリット式ロッドレスORGAシリーズ 直送品 搬送工程に最適 アクチュエータユニット 商品仕様 商品詳細情報 スリット式 シリンダ径Φ16~50 マグネット式 メーカーサイトはこちら 圧縮空気の持つエネルギーを 商品の特徴 ORGA32X1900-L ブランド 一面配管が可能で配管方向も多彩なポート配置 お客様のご都合による返品はお受けできません 40440円 メーカー 右折り返しタイプ EAS6RNX-E050-ARMKD-2 コガネイ 1 リニアガイド付であらゆる工程で採用いただけます 直線運動や搖動などの具体的な力として実現します 全長と高さを極力抑えたスリットタイプ 返品について 1個 KOGANEI 位置決め機能内蔵 備考 コガネイ


 関武夫氏は当時三菱鉱業の技術部に在籍していた.

 「パレンバンの石油部隊」には前編に「回想」を寄稿し,後編には「回想 その二」を寄稿している.

 関氏は,1943(昭和18)年末に徴用され,1944(昭和19)年3月にシンガポールに着き,約三週間後に南方燃料廠から南スマトラ燃料工廠地質課に配属されたという.「北大の湊氏も私と相前後して着任した」とあるから,湊先生のパレンバン着は3月末から4月初めのこととなろうか.

 湊先生が札幌を発ったのは1944(昭和19)年2月13日と教室日誌にあるので,現地赴任まで2ヶ月前後かかっている.その間何をしていたのだろうか.


 じつは,南方石油部隊関連の著書を読んでいると,その経緯が推測できる.当時軍属は軍馬・軍犬・軍鳩以下とさげすまれ,あらゆることが後回しにされていたらしい.軍人なら南方まで赴任するのに軍用機で二~三日のところ,軍属は船で三ヶ月かかるのが普通だった.船で移動するのに三ヶ月かかったわけではない.船の空きを見つけるのに無駄な時間を過ごしたのだ.湊先生は石油関連会社からの派遣ではなく,文部省派遣の学者だったため少し早かったのかも知れない.

 石油が欲しくて戦争を始めたのに,その石油を確保するための学者・技術者の移動は二の次,三の次だったわけだ.戦争に負けるわけである.

 関氏は敗戦後も現地に残され敗戦処理を行っている.その関氏もまたブンガワン・ソロを書き残している….戦中戦後を通じて過酷だった生活に潤いを与える現地の歌だったようだ.


Bengawan Solo

Bengawan Solo riwajatmu ini

Sedari dulu djadi perhatian insani,

Musim Kemarau ta'berapa airmu,

Dimusin hudjau air meluap sampai djah,

Mata airmu dari Solo,

terkurung gunung seribu,

Air mengalir sampai djauh,

achirnja kelut Isu perahu riwajatnja dulu,

Kaum pedagan lalo selalu naik itu perehu




+++


 虎岩達雄氏は,本部地質課の虎岩調査隊の隊長である.

 その虎岩氏が「パレンバンの石油部隊」(前編)に「ジャンビー地質調査記」と題した一文を掲載している.もちろん,調査隊の隊長であるから,隊の地質調査に関する記述がほとんどで,湊先生の話は出てこない.しかし,興味深い話題があったので紹介する.


「プラジューは旧BPMの製油所で、南方油田の地質学研究の中心であった。油田に関する凡ゆる資料、特に基準化石の完備と物理探査の資、コアー分析装置等は各油田から集中する料試料を分析しかつ総合して、まことに見事な技術を展開していた。内地の地質屋が個人的な野外調査をなし地質図を発行し、あるいは象牙の塔にこもって顕微鏡的研究に終っているのに比べて此処では化学、地球物理、生物学の凡べてを動員し完全に油国技術を発輝して統計的な調査を行ない、直接生産に、あるいは学術上に欠くことのできない基礎を提供していた。」


BPMBataafsche Petroleum Maatschappij NV)=バタビヤ石油会社.ロイヤル・ダッチ・シェルのインドネシアにおける事業統括会社のこと.


 ほかの石油技術者も述べているが,占領したプラジュー製油所に残された油田の地質学的資料は,日本のタコ壺的研究の匂いはなく,圧倒的にシステム化されていた.逆にいえば,南方油田の調査資料に触れた学者・技術者は最先端の石油探査技術に触れ,大いに学んだ.そして戦後,その技術を日本に持ち帰ることになる.



「オランダ時代地質調査は地表調査、地震探査、重力探査、試錐探査(外に最近は試験的に土壌分析調査が行なわれていた)等の各種の方法で五~六ケ班の調査隊が常時活動していた。これに要する調査用器材、設営材料等何れも熱地と密林、湿地等に適した特殊のものが整備されていた。写真室、測量室、製図室も科学的設備を誇り、特に資料の整理方法はいわゆるBPMシステムとして我々が最も注目した所であった。例えばカラーチャートにカステルのスタンダード・ぺンシルを用いペンシル・ナンバー何号は火山岩、何号は頁岩と、その号数を規定し青空色が19、茶色が37といった具合にナンバーで色が目に浮ぶ仕組になっていた。地質図、柱状図はそれぞれこの色で統一彩色されていた。地質符号、生産符号、測量符号なども実に合理的に出来ていた。」


 ともすれば,精神主義・根性主義に陥りがちな帝国日本とは違い,すべてがシステマチックに組まれていた.

 私が北大地鉱教室の学生時代,湊先生の講座には電子顕微鏡室(微古生物学研究室),古地磁気研究室のほか,写真暗室,写真撮影室などが独立して設置してあった.当時はそれが当たり前なのだと思っていたが,のちに大学全体を見渡せば,そうではないようだった.BPMシステムを見てきた湊先生は,そういう研究室を目指していたのだろう.

 また,話は少しズレるが,湊先生が集めていた世界各地の地質資料をいつでも見られる展示室もあった.これは現在の北大博物館の基礎になっている.旧理学部の建物が博物館として再出発した時,かなりの長期間,資料といえば理学部地鉱教室の資料しかなかった事実は,ほかの教室とは一線を画していた現れであろう.


 カステルとは,ファーバーカステル社のこと.

 卒論学生として湊教授室に伺った時,そこには百色以上はあるのではないかと思われるファーバーカステルの色鉛筆のセットがあった.当時はただの自慢話の類いかと思っていたが,その色鉛筆をつかいながら湊先生はおっしゃった.外国の地質調査所では,石灰岩は何番,火山岩は何番というように決められていて地質図もそれに従って塗り分けられている.…まさに,上記BPMシステムのことを先生はおっしゃっていたのだった.

 ちなみに当時修士過程にいたH先輩は修士論文として提出する地質図の塗色に,この色鉛筆セットをつかわせてもらい,「塗り心地が日本製ものと違う」としきりに感心していたことを思いだす.



+++


 「パレンバンの石油部隊 後編」(1983)に佐藤信正氏は「随想」と題する文を書いている.佐藤氏は当時,コークス炉建設部隊にいた.

 その中に,佐藤氏を含む一行が母国日本に帰るときの話がある.


「帰国時の昭南は、筑紫山頂に翻る日章旗も今は見えず、連日赤い玉、青い玉が夜空に飛んでいた。戦況悪化の現実に直面し、内地帰還も諦めた頃、たまたま我々は華福に恵まれ、艦隊輸送作戦命令実施の第一回目にして最後の艦隊に乗艦することを得た。」

「一同は戦艦伊勢、日向、巡洋艦大淀に分乗し、駆逐艦共五隻の艦隊、十日間の航海で、呉軍港に無事帰送することが出来た。艦内ではじめて、ミッドウエー、レイテ海戦の敗戦を聞き、昭和二十年二月十日到着した。」

「呉軍港には、戦艦大和一艦が停泊中で、帰艦の伊勢、日向の両戦艦を加えた三隻のみが当時の連合艦隊の戦艦群と記憶している。」


 先に「北大古生物学の巨人たち」では,「帰国にあたっては、技術者は攻撃されにくい病院船で帰るのが普通だが、湊は早く帰りたいために、駆逐艦に乗り帰国した。」とあった.

 さまざまな状況から考えるに,民間から徴用された技術者は帰るあてがなく放置されていたが,たまたま戦地を放棄し日本へと帰る連合艦隊に空きがあったために同乗できたに過ぎないことがわかる.そして湊先生は「駆逐艦に乗り」が正しければ,残る二隻の駆逐艦のどれかに乗っていたことになる.「第一回目にして最後の艦隊」というからには,この艦隊のどれかに乗っていたに間違いない.戦地から逃げる連合艦隊は,じつは日本で一番安全な乗り物だったのだろう.

 艦隊は十日間の航海で,1945(昭和20)年2月10日に呉軍港に到着した.そして,2月24日,湊無事帰着の電報が北大に届いた.話は整合する.


 その後,日本軍に虐待されていた連合軍捕虜のために,米国が提供した救援物資を南方へ運ぶという理由で「阿波丸」の安全航海が保証された.阿波丸は病院船ということにされた.そして,日本への帰り船には,たまたま空きがあったため,現地に取り残されていた徴用技術者の多くが乗船できることとなった.そして,阿波丸は米軍潜水艦に撃沈された.生残りはたった一人だったという.

 阿波丸撃沈には多くの謎があるが,ここでは触れない.詳しくはロジャー・ディングマン(Roger Dingman, 1997)「阿波丸撃沈=太平洋戦争と日米関係=(川村孝治,2000訳)」を読むといい.



 ところで,「パレンバンの石油部隊 後編」に塚田了氏が不思議な話を残している.

 昭和20年代の或る年,塚田さんが赤坂離宮付近をあるいていると,付近の道筋に不案内だったために警察官に道を尋ねたところ,その人物は戦時中の岡本技術軍曹であることに気付き驚いたという.もっと驚いたことは,岡本技術軍曹は阿波丸に乗船し死んだはずの人物であった.阿波丸から助け出されてのはたった一人の人物=下田勘太郎であったことが公式の記録であるはずなのに.

 岡本元軍曹は,「かなりの数の者が阿波丸を沈めた潜水艦に助けられ」たと証言している.果たしてこれは事実なのだろうか.岡本元軍曹は,その当時国鉄大阪管理局の公安官だったというから,記録を調べれば,生残りが複数いたのかどうかは確認できるだろう.

 歴史というヤツは,たとえそれが公式の記録であっても,疑ってかかるべきものなのだろうか….


+++


 現在のところ,これまでが湊先生の南方行について知りうるすべてである.ブンガワンソロは,死を覚悟して石油開発のために南方へおもむいた地質学者,石油技術者が現地で聞いた,歌が好きなインドネシアの人たちから与えられた,つかの間の平和だったのかも知れない.


 最後に,田中嘉寛氏が「北大古生物学の巨人たち」で,湊先生の言葉として残した言葉を引用しよう.この言葉は当時助教授だった加藤誠氏から,湊先生の言葉として聞いたことでもある.


「あれもやらなければ、この問題も解決させなければ、といつまでもやっていたのでは論文は書けない。一区切りついたところで、問題点は問題点として残して、論文にまとめなさい」


 この項終わり.

 またなにか,情報がはいった時に追加することとします.


ブンガワンソロの謎(湊先生の場合:そのろ)


 「パレンバンの石油部隊」という本がパレンバンの石油部隊刊行会から出版されている.1973年版は前編とは記されていないが,1982年版には「後編」と記されているため1973年版は前編もしくは本編に当たる.

 ひそかに,湊先生が投稿しているのではないかと期待していたが,どちらにもなかった.しかし,湊先生の名前が出てくる投稿がいくつか見いだされた.いずれも正式な記録ではなく,戦後数十年経ってから生き残った人々の記憶をたどって記されたものであるから,間違いが忍び込んでいる可能性はある.今わたしが書いているのも正式な記録ではないので,明らかな間違い以外は気にしないこととしよう.



 牧山鶴彦氏は,当時地質課長と呼ばれ日本石油から出向していたらしい.以下に示す「地質調査隊」を統括する立場であったらしい.明瞭な部隊構造図や名簿が見当たらないので,「…らしい」で失礼する.

 牧山氏は「地質調査隊の業績」なる長文を残している.



「南スマトラ燃料工廠地質調査隊派遣位置図」


 地質調査隊は,地質課自体で遂行したものが五班,文部省から特派された学者たちを主班として委託したものが三班,計八班であった.


  南スマトラ燃料工廠地質調査隊

   ■地質課

     ┣宇佐美隊(構造試錐)

     ┣林隊  (重力竝に地震探鉱)

     ┣虎岩隊 (構造試錐精査)

     ┣金子隊 (地震探鉱:屈折法)

     ┗岡本隊 (構造試錐)


   ■文部省派遣

     ┣青山隊 (地震探鉱)

     ┣湊隊  (構造試錐)

     ┗熊谷隊 (重力偏差探鉱)


 湊先生が「構造試錐」調査隊の隊長を務めていた.油田調査だけでも違和感があったのに,構造試錐とは…!

 湊隊の,より詳しい調査内容が示されているので引用しよう.


 湊調査隊 構造試錐

一、編成 隊長 北海道帝国大学助教授   湊 正雄

     隊員 陸軍少尉(庶務)     安田信行

     陸軍徴員(利根ボーリング)試錐 柴山周吉

     〃     〃         小川 豊

     〃一鉱より派遣(庶務)     矢田了爾

     〃    〃 (〃 )     乗本林太

     〃    〃 (連絡係)    李黄添信

     〃    〃 (〃  )    剱󠄁剱 清作

     陸軍主計軍曹(経理)      小桧山肇

     医官(一鉱より派遣)      井上直孝

    現地人傭役者

     測量手 チョクワディカリオ、クマイディアバナン

     試錐係 モハメット、ジャディ、ナスング、スワルサー、サレー

     製図手 カステム、シレガル、ライラニー、バッハリー

     事務手 タンプボロン

     地質助手 ムクチー、シトンプール、アブリヒル

    現地人労務者約二五〇名


 なお本調査には以上の他に杉本良平、成田正(ボーリング)岡本慶文少尉 橋田秋彦(庶務)熊谷吉郎(測量)の応援を得た。


二、調査地 西プラブムリー地区パレンバンの両方約一〇〇粁の地点、面積(東西三粁 南北六粁)

三、調査期間 昭和十九年六月十日~十二月十日

四、調査概要 本構造試錐ではクレリュウス式試錐機六台による試錐坑五〇坑、スパイラル試錐機二台による試錐孔七八七孔、計八三七孔の試錐を行ない、コアの総延長は七、九八〇米に及んでいる。

 この作業を総括して調査地内に二つのカルミネーションの存在を確認している。戦後この地区でインドネシアによる試掘が成功し深度一六〇〇米内外テリサ層群のOT層中から出油稼行されている由である。本調査報告の詳細は昭和三十五年六月石油資源開発KK探鉱部によって複製されている


 隊員庶務の安田信行さんは,この「ブンガワンソロの謎」の最初に引用した「随筆 いんどねしあ」の著者である.ところどころよくわからない「名詞」が出てくるが,この本全体が一時期同じ釜の飯を食べた人たちが記録しているものであるから,内輪ではよくわかった「名詞」なのだと思う.

 湊隊が調査をおこなったのは,1944(昭和19年)6月10日から12月10日まで.湊先生の「教室日記」内の空白の一部が埋まった.

 「カルミネーション」は,たぶん業界用語だと思われるが,地質構造上の高まりのことであろう.もちろんそこには周囲からの石油の集積があるので,石油探査では重要なポイントとなる.

 「テリサ層群」とはテリサ頁岩層とも呼ばれる,南スマトラに分布する第三系のことで,当地の油母岩となっているようだ.


 何はともあれ,湊隊はボーリングコアのデータを読み解き,当地の地質構造を判断して有望な地域を見いだしたらしい.しかし,戦時中に採掘した様子はなく,また多くの記録によれば既存の油田から採掘したオイルも日本に運ぶことが出来ずに山中にてむなしく燃やしたとあるので,調査結果は活かされなかったらしい.しかし,戦後の平和時にインドネシアによる試掘が成功し新しい油田が開発されたそうだ.


+++


 熊谷直一氏は文部省派遣の地質学者で,熊谷隊の隊長であった.派遣当時は京都帝国大学の助教授であり,湊先生と同じような立場であった.熊谷氏の著述は,当然ながら熊谷隊の調査についてである.しかし,熊谷氏の京都発から帰着まで,詳しく行程が述べられており,もし湊先生がこの「パレンバンの石油部隊」に投稿していれば,同様な行程が描かれていたはずなので,惜しい気がする.もちろん,湊先生とは隊が違うので,湊先生の行動は記されていない.

 しかし,示された図にパレンバン市内カンバン・イカン付近の略図が載っており,その「4」と示された宿舎には「佐藤道隆氏,同氏内地帰還後は湊正雄氏,浅野清氏」とあり,湊先生の足跡が浮かぶ.現在のパレンバンのどこに当たるのかは不明だが,今後も注意して追ってゆきたい.



「第2図 パレンバン市内カンバン・イカン附近略図」


(つづく)